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101曲目 [邦楽]

1186年(文治2年4月8日) 静御前が鶴岡八幡宮で源義経を慕う白拍子の舞を演ずる

吉野で義経と別れ京へ戻るが、山中をさまよっていた時に山僧に捕らえられ京の
北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる
同年4月8日、鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた静は義経を慕う歌を唄う
「しづやしづ しづのをだまきくり返し 昔を今に なすよしもがな」
「倭文(しず)の布を織る麻糸をまるくまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら」 自分の名前「静」を「倭文(しず)」とかけつつ、頼朝の世である「今」を義経が運栄えていた「昔」に変える事ができれば・・・・と歌い
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい」 吉野山は静と義経が別れた場所に想う
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織田哲郎/いつまでも変わらぬ愛を

織田哲郎(1958年3月11日 - ) 作曲家、音楽プロデューサー、シンガーソングライター
ソロ・アーティストとして1983年アルバム「VOICES」でデビュー
1992年に大塚製薬ポカリスエットのCMソング、「いつまでも変わらぬ愛を」が大ヒット
  
----- その後 -----
これは頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が
「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた
「吾妻鏡」または「東鑑」は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの幕府の事績を編年体で記す 成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られているが編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要
静はこの時に義経の子を妊娠していて、頼朝は女の子なら助けるが男の子なら殺せと命じる
7月29日に静は男子を産み、安達清常が赤子を受け取ろうとするが静は泣き叫び離さなかった
磯禅師(静御前の母)が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められ遺棄された
9月16日、静と磯禅師は京に帰されたが静のその後は不明
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コメント 4

macky

アレンジされていたので、最初解かりませんでした。^0;
by macky (2010-04-28 07:49) 

nano

mackyさん、昔のはいいのがなくてヾ(´▽`;)ゝ
by nano (2010-04-28 08:20) 

薔薇少女

義経と静御前のお話、とても興味深く拝読しました。
時代に翻弄されるのはいつも女ですね(哀)
現在は女(エリカ様?)に翻弄される男も多いけど・・・?
by 薔薇少女 (2010-04-29 07:37) 

nano

薔薇少女さん、諸説ある中でも吾妻鏡は
北条家の側からの記述
別の視点から、子供は生きていて静と共に
何処かで生き延びた・・・・なんて事も
あるといいなぁ♪
by nano (2010-04-29 08:32) 

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